Unbeaten tracks in Japan : an account of travels in the interior including visits to the aborigines of Yezo and the shrine of Nikkô / Isabella L. Bird
London : J. Murray, 1893
Unbeaten Tracks in Japan - Project Gutenberg(1885年版)
Bird, Isabella. "Unbeaten Tracks in Japan: The Firsthand Experiences of a British Woman in Outback Japan in 1878". Japan & Stuff Press (2006). ISBN 4-9902848-0-1.
日本奥地紀行 / イサベラ.バード(Isabella L. Bird)著 ; 高梨健吉訳
東京都 : 平凡社, 2000
『日本奥地紀行』(にほんおくちきこう、英語:Unbeaten Tracks in Japan)は、イザベラ・バードの日本旅行記である。
1878年(明治11)6月から9月にかけて東京から北海道(蝦夷地)までの旅行の記録で、明治維新当時の日本の地方の住居、服装、風俗、自然を細かく書き留めてあり、近代以前の日本の情勢を知ることのできる資料である。またアイヌ人に関する記述も豊富にある。
初版は1880年に2巻本として出版されたが,その後版を重ね、関西旅行の記述その他を省略した1885年版が出版された。
栃木県壬生町から鹿沼市の日光杉並木に至る例幣使街道では、よく手入れされた大麻畑や街道沿いの景色に日本の美しさを実感したと書いている。また日光で滞在した金谷邸(カナヤ・カッテージ・イン)にはその内外に日本の牧歌的生活があると絶賛し、ここに丸々2週間滞在して日光東照宮をはじめ、日光の景勝地を家主金谷善一郎および通訳の伊藤とともに探訪する。[3]
日光滞在10日目には奥日光を訪れるが、梅雨時の豊かな水と日光に育まれた植生、コケ、シダ、木々の深緑と鮮やかに咲き誇る花々が中禅寺湖、男体山、華厳滝、竜頭滝、戦場ヶ原、湯滝、湯元湖を彩る様を闊達に描写し絶賛している。街道の終点である湯元温泉にもたいへんな関心を示し、湯治場を訪れている湯治客の様子を詳らかに記している。またその宿屋(やしま屋)のたいへん清潔である様を埃まみれの人間ではなく妖精が似合う宿であると形容し、1泊したうえで金谷邸への帰途に就く。[4]
山形県南陽市の赤湯温泉の湯治風景に強い関心を示し、置賜地方を「エデンの園」とし、その風景を「東洋のアルカディア」と評した。[5]
『日本奥地紀行』では当時の日本をこう書いている。
他方、「日本人は、西洋の服装をすると、とても小さく見える。どの服も合わない。日本人のみじめな体格、凹んだ胸部、がにまた足という国民的欠陥をいっそうひどくさせるだけである[11]」、 また「日本人の黄色い皮膚、馬のような固い髪、弱弱しい瞼、細長い眼、尻下がりの眉毛、平べったい鼻、凹んだ胸、蒙古系の頬が出た顔形、ちっぽけな体格、 男たちのよろよろした歩きつき、女たちのよちよちした歩きぶりなど、一般に日本人の姿を見て感じるのは堕落しているという印象である[12]」と日本人の人種的外観について記している。なおアイヌ人については「未開人のなかで最も獰猛」そうであるが、話すと明るい微笑にあふれると書いている[13]。ほかにもホザワ(宝坂?)と栄山の集落について「不潔さの極み」と表し、「私が日本人と話をかわしたり、いろいろ多くのものを見た結果として、彼らの基本道徳の水準は非常に低いものであり、生活は誠実でもなければ清純でもない、と判断せざるをえない[14]」と阿賀野川の津川で書くなど、日本について肯定的な側面と否定的な側面双方を多面的に記述している。
日本內陸遊記”
“日本內陸之旅”是從1878年6月寫了九月( 1878 ) ,於1880年印製成“在日本不敗的曲目”和( “道路不露痕跡日本”和直譯) 。地方去了,“西方人,不詳細,除了太陽所提到的,還簽署了”沒有人迄今在歐洲誰擁有托阿中風所有(我) “和”前言“開頭已表明,它標誌著“是,這個遊記是不同性質的日本遊記現有的[ 2 ] 。
我在Reihei寫使用公路通往陽光香柏樹從鹿沼市,栃木縣壬生町,鑑於公路或沿一直保持良好大麻場已經意識到日本的美。此外,妄言,有一個田園生活在日本內部和金谷大廈外誰住在陽光中(金谷山寨式) ,包括日光東照宮,房東金谷陽光的景區留在這裡小胖2週我想與伊藤解釋和Zen'ichiro探索。 [3]
在參觀奧日光市停留10天,但禪寺,男性的身影,鮮花盛開的鮮豔和深綠色的植被已經孕育在陽光和雨季水源充足,華嚴的苔蘚,蕨類植物,樹木你是廣受好評的有力描繪成彩色瀑布, Ryuzunotaki , Senjougahara , Yudaki ,湯湖。顯示了大量的湯溫泉的興趣是高速公路的終點,我已經寫了Tsumabiraka的溫泉治療的客人誰訪問過的地方澆水的狀態。另外,我的形容詞來是客棧童話好看,而不是人類的塵土飛揚的社會責任是很乾淨的客棧(八島亞) ,頭回金谷大廈在幫助了一夜。 [4]
顯示在赤湯溫泉山形縣南陽市的景觀澆水了濃厚的興趣,這是一個“伊甸園”和置賜區域,並把它稱為“阿卡迪亞東方”的景觀。 [5]
我在“日本內陸之旅”寫信給當時的日本。
我已經走過超過1200英里的蝦夷和內陸的,但絕對安全又沒有後顧之憂。我認為女人不適合眼睛粗魯甚至比日本在世界上更危險,沒有任何國家能在所有安全出行[ 6 ] [ 7 ]
即使在“美麗的小鎮鬧”新潟, [ 8 ] ,是一個小鎮,尤其是不愉快的“感覺湯澤縣政府,法院,學校,銀行或用”平淡脫穎而出以及一個大膽的“另有稱讚或黑色的石頭[9]美麗的Uenakano此外,或標有“ [ 10 ] 。
在另一方面, “日本和西方打扮,看起來很小。哪些衣服不合身,只有更差的日本全國缺陷苦不堪言的體質,胸部凹陷,即弓腿的腳[皮膚發黃的臉形式“日本人,僵硬的頭髮,精緻的眼皮,細長的眼睛,眉毛屁股下來,鼻子和俗氣,乳房凹陷,面頰蒙古系統,如馬走了出來也11 ]” , ,日本是每步行印象的比賽被交錯弱小的體魄,男人,比如走在第一時間,婦女的孩子,感到日本人民普遍認為已經下降[ 12 ]的視線“我寫的外觀。應該注意的是,我寫這樣的話“野蠻人中最狠”阿伊努,卻充滿了燦爛的笑容和說話[ 13 ] 。代表的榮聖芳澤的結算“的缺乏衛生高度”和( Takarazaka ? ) ,作為“我或拉與日本的故事的結果,我看到了很多東西以不同的方式,他們的基本道德水平除了等寫在阿賀野市中津川不由的決定是非常低的,生活是,也不是無辜的如果有一個真誠的[ 14 ]“ ,和側面兩個對日本的消極和積極因素我所描述的多面性。
London : J. Murray, 1893
Unbeaten Tracks in Japan - Project Gutenberg(1885年版)
Bird, Isabella. "Unbeaten Tracks in Japan: The Firsthand Experiences of a British Woman in Outback Japan in 1878". Japan & Stuff Press (2006). ISBN 4-9902848-0-1.
日本奥地紀行 / イサベラ.バード(Isabella L. Bird)著 ; 高梨健吉訳
東京都 : 平凡社, 2000
『日本奥地紀行』(にほんおくちきこう、英語:Unbeaten Tracks in Japan)は、イザベラ・バードの日本旅行記である。
1878年(明治11)6月から9月にかけて東京から北海道(蝦夷地)までの旅行の記録で、明治維新当時の日本の地方の住居、服装、風俗、自然を細かく書き留めてあり、近代以前の日本の情勢を知ることのできる資料である。またアイヌ人に関する記述も豊富にある。
初版は1880年に2巻本として出版されたが,その後版を重ね、関西旅行の記述その他を省略した1885年版が出版された。
『日本奥地紀行』
1878年(明治11)6月から9月にかけ『日本奥地紀行』は執筆され、1880年に "Unbeaten Tracks in Japan"(直訳すると「日本における人跡未踏の道」)として刊行された。冒頭の「はしがき」では「(私の)全行程を踏破したヨーロッパ人はこれまでに一人もいな かった」としるし、また「西洋人のよく出かけるところは、日光を例外として詳しくは述べなかった」と記し、この紀行が既存の日本旅行記とは性格を異にする ことを明言している[2]。栃木県壬生町から鹿沼市の日光杉並木に至る例幣使街道では、よく手入れされた大麻畑や街道沿いの景色に日本の美しさを実感したと書いている。また日光で滞在した金谷邸(カナヤ・カッテージ・イン)にはその内外に日本の牧歌的生活があると絶賛し、ここに丸々2週間滞在して日光東照宮をはじめ、日光の景勝地を家主金谷善一郎および通訳の伊藤とともに探訪する。[3]
日光滞在10日目には奥日光を訪れるが、梅雨時の豊かな水と日光に育まれた植生、コケ、シダ、木々の深緑と鮮やかに咲き誇る花々が中禅寺湖、男体山、華厳滝、竜頭滝、戦場ヶ原、湯滝、湯元湖を彩る様を闊達に描写し絶賛している。街道の終点である湯元温泉にもたいへんな関心を示し、湯治場を訪れている湯治客の様子を詳らかに記している。またその宿屋(やしま屋)のたいへん清潔である様を埃まみれの人間ではなく妖精が似合う宿であると形容し、1泊したうえで金谷邸への帰途に就く。[4]
山形県南陽市の赤湯温泉の湯治風景に強い関心を示し、置賜地方を「エデンの園」とし、その風景を「東洋のアルカディア」と評した。[5]
『日本奥地紀行』では当時の日本をこう書いている。
他には新潟を「美しい繁華な町」としつつも、県庁、裁判所、学校、銀行などが「大胆でよく目立つ味気ない」としたり[8]、湯沢を「特にいやな感じのする町である」と[9]記したり、また黒石の上中野を美しいと絶賛したりしている[10]。
他方、「日本人は、西洋の服装をすると、とても小さく見える。どの服も合わない。日本人のみじめな体格、凹んだ胸部、がにまた足という国民的欠陥をいっそうひどくさせるだけである[11]」、 また「日本人の黄色い皮膚、馬のような固い髪、弱弱しい瞼、細長い眼、尻下がりの眉毛、平べったい鼻、凹んだ胸、蒙古系の頬が出た顔形、ちっぽけな体格、 男たちのよろよろした歩きつき、女たちのよちよちした歩きぶりなど、一般に日本人の姿を見て感じるのは堕落しているという印象である[12]」と日本人の人種的外観について記している。なおアイヌ人については「未開人のなかで最も獰猛」そうであるが、話すと明るい微笑にあふれると書いている[13]。ほかにもホザワ(宝坂?)と栄山の集落について「不潔さの極み」と表し、「私が日本人と話をかわしたり、いろいろ多くのものを見た結果として、彼らの基本道徳の水準は非常に低いものであり、生活は誠実でもなければ清純でもない、と判断せざるをえない[14]」と阿賀野川の津川で書くなど、日本について肯定的な側面と否定的な側面双方を多面的に記述している。
日本內陸遊記”
“日本內陸之旅”是從1878年6月寫了九月( 1878 ) ,於1880年印製成“在日本不敗的曲目”和( “道路不露痕跡日本”和直譯) 。地方去了,“西方人,不詳細,除了太陽所提到的,還簽署了”沒有人迄今在歐洲誰擁有托阿中風所有(我) “和”前言“開頭已表明,它標誌著“是,這個遊記是不同性質的日本遊記現有的[ 2 ] 。
我在Reihei寫使用公路通往陽光香柏樹從鹿沼市,栃木縣壬生町,鑑於公路或沿一直保持良好大麻場已經意識到日本的美。此外,妄言,有一個田園生活在日本內部和金谷大廈外誰住在陽光中(金谷山寨式) ,包括日光東照宮,房東金谷陽光的景區留在這裡小胖2週我想與伊藤解釋和Zen'ichiro探索。 [3]
在參觀奧日光市停留10天,但禪寺,男性的身影,鮮花盛開的鮮豔和深綠色的植被已經孕育在陽光和雨季水源充足,華嚴的苔蘚,蕨類植物,樹木你是廣受好評的有力描繪成彩色瀑布, Ryuzunotaki , Senjougahara , Yudaki ,湯湖。顯示了大量的湯溫泉的興趣是高速公路的終點,我已經寫了Tsumabiraka的溫泉治療的客人誰訪問過的地方澆水的狀態。另外,我的形容詞來是客棧童話好看,而不是人類的塵土飛揚的社會責任是很乾淨的客棧(八島亞) ,頭回金谷大廈在幫助了一夜。 [4]
顯示在赤湯溫泉山形縣南陽市的景觀澆水了濃厚的興趣,這是一個“伊甸園”和置賜區域,並把它稱為“阿卡迪亞東方”的景觀。 [5]
我在“日本內陸之旅”寫信給當時的日本。
我已經走過超過1200英里的蝦夷和內陸的,但絕對安全又沒有後顧之憂。我認為女人不適合眼睛粗魯甚至比日本在世界上更危險,沒有任何國家能在所有安全出行[ 6 ] [ 7 ]
即使在“美麗的小鎮鬧”新潟, [ 8 ] ,是一個小鎮,尤其是不愉快的“感覺湯澤縣政府,法院,學校,銀行或用”平淡脫穎而出以及一個大膽的“另有稱讚或黑色的石頭[9]美麗的Uenakano此外,或標有“ [ 10 ] 。
在另一方面, “日本和西方打扮,看起來很小。哪些衣服不合身,只有更差的日本全國缺陷苦不堪言的體質,胸部凹陷,即弓腿的腳[皮膚發黃的臉形式“日本人,僵硬的頭髮,精緻的眼皮,細長的眼睛,眉毛屁股下來,鼻子和俗氣,乳房凹陷,面頰蒙古系統,如馬走了出來也11 ]” , ,日本是每步行印象的比賽被交錯弱小的體魄,男人,比如走在第一時間,婦女的孩子,感到日本人民普遍認為已經下降[ 12 ]的視線“我寫的外觀。應該注意的是,我寫這樣的話“野蠻人中最狠”阿伊努,卻充滿了燦爛的笑容和說話[ 13 ] 。代表的榮聖芳澤的結算“的缺乏衛生高度”和( Takarazaka ? ) ,作為“我或拉與日本的故事的結果,我看到了很多東西以不同的方式,他們的基本道德水平除了等寫在阿賀野市中津川不由的決定是非常低的,生活是,也不是無辜的如果有一個真誠的[ 14 ]“ ,和側面兩個對日本的消極和積極因素我所描述的多面性。
Author:Isabella Lucy Bird Bishop
Works
- The Englishwoman in America (1856)
- Notes on Old Edinburgh (1869)
- The Yangtze Valley and Beyond (1899)
- Among the Tibetans (1894)
- The Hawaiian Archipelago (1875)
- A Lady's Life in the Rocky Mountains (1879)
- Unbeaten Tracks in Japan (1880)
- Journeys in Persia and Kurdistan (1891)
- Korea & Her Neighbours (1898)
- The Golden Chersonese and the Way Thither (1883)
Contributions to EB1911 (1 signed article)
- “Korea” in Encyclopædia Britannica, (11th ed.), 1911. (in part)
訳書
- 『日本奥地紀行』 高梨健吉訳、平凡社〈東洋文庫240〉、1973年1月。ISBN 4-582-80240-0。 - 1885年版の翻訳。
- 『日本奥地紀行』 高梨健吉訳、平凡社〈平凡社ライブラリー〉、2000年2月。ISBN 4-582-76329-4。
- 『バード日本紀行』 楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳、雄松堂出版〈新異国叢書 第3輯 3〉、2002年8月。ISBN 4-8419-0295-3。 - 1885年版で削除された主要部分の翻訳。
- 『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』 高畑美代子訳注、中央公論事業出版、2008年1月。ISBN 978-4-89514-296-0。 - 1885年版で削除された主要部分の翻訳。
- 『イザベラ・バードの日本紀行 上』 時岡敬子訳、講談社〈講談社学術文庫〉、2008年4月。ISBN 978-4-06-159871-3。 - 1880年版からの全訳。
- 『イザベラ・バードの日本紀行 下』 時岡敬子訳、講談社〈講談社学術文庫〉、2008年6月。ISBN 978-4-06-159872-0。
- 『完訳 日本奥地紀行1 横浜―日光―会津―越後』 金坂清則訳注、平凡社〈東洋文庫 819〉、2012年3月。ISBN 978-4-582-80819-3。 - 全4巻、1880年版完訳、綿密な注を施した版。
- 『完訳 日本奥地紀行 2 新潟―山形―秋田―青森』 金坂清則訳注、平凡社〈東洋文庫 823〉、2012年7月。
- 『完訳 日本奥地紀行 3 北海道・アイヌの世界』 金坂清則訳注、平凡社〈東洋文庫 828〉、2012年11月。
- 『完訳 日本奥地紀行 4 東京―関西―伊勢 日本の国政』 金坂清則訳注、平凡社〈東洋文庫 833〉、2013年3月。
- 『新訳 日本奥地紀行』 金坂清則訳注、平凡社〈東洋文庫 840〉、2013年10月。-1885年版の新訳。